人が死ぬとき、持っていけるものは何もない。
どれだけお金があっても、どれだけ物を持っていても、どれだけ立派な肩書きがあっても。最後には、全部この場所に置いていく。
きれいな服も、大きな家も、頑張って買ったバッグも。
そう思うと、今まで必死になって集めてきたものが、少し違って見えてきます。
「足りないもの」を埋めるように
もっといいものが欲しい。もっときれいになりたい。もっと認められたい。
そうやって、「足りないもの」を埋めるように生きてきた気がします。
もちろん、好きなものに囲まれて暮らすのは楽しい。きれいになりたいし、素敵なものも欲しい。おいしいものを食べたいし、旅行にも行きたい。そういう「今を楽しむこと」は、きっと悪いことじゃない。
でも、最後に残るものがあるとしたら、それはきっと物じゃないのだと思います。
最後に残るもの
誰かと笑った時間。誰かを大切にした記憶。自分が誰かに与えたもの。そして、自分が自分らしく生きた時間。
自分がいなくなったあとも、誰かの中に残っているもの。それは、形のあるものじゃないのかもしれません。
何者になるかより、何を残せる人になるか
わたしは昔、「何者かになりたい」と思っていました。
人に認められる何かが欲しかった。仕事で成功するとか、お金をたくさん稼ぐとか、誰かに羨ましいと思われるような人生とか。
でも、年齢を重ねてくると、少しずつ考え方が変わってきました。
何者になるかより、何を残せる人になるか。
自分が生きてきたことで、誰かの人生に少しでも、あたたかいものを残せたら。
「あの人といると楽しかった」
「お母さんが作ってくれた、あれが好きだった」
「あのとき、あの言葉をかけてもらって救われた」
そんなふうに、誰かの記憶の片隅に残ること。それも、人生のひとつの価値なんじゃないかと思うのです。
たくさん持っていた人生より
だったら、わたしはこれから何を集めたいんだろう。
物じゃなくて、経験を。評価じゃなくて、思い出を。「もっと、こうすればよかった」より、「けっこう楽しかったな」と思える時間を。
いつか人生を振り返ったとき、たくさん持っていた人生より、たくさん生きた人生だった、と思えたらいい。
誰かの心に、置いていけばいい
死ぬときに持っていけるものは、きっと何もない。
だったら、持っていくために生きるんじゃなくて、生きている間に、できるだけたくさんのものを、誰かの心に置いていけばいい。
お金も、物も、肩書きも。いつか全部、置いていく。でも、誰かと笑った時間や、誰かを大切にしたことや、自分らしく生きようとした姿は、もしかしたら、自分がいなくなったあとも残っていくのかもしれません。
人生の最後に、「わたしは何を持っているんだろう」と考えるより、「わたしは、何を残してこられただろう」——そう思える人生にしたい。
これからの人生、少しずつでもいい。何かを手に入れるだけじゃなく、何かを誰かに渡せる人になっていきたい。
「この人と出会えてよかった」
そんなふうに思ってもらえる人生なら、それはきっと、十分に豊かな人生だと思うのです。